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色々な視点からの刀トーク Iai Seiren Kisuikai 

刀のお話Katana-talk


◎武道家と愛刀家、刀剣を巡る環境と昨今の女子力

居合や剣道をするという事と、刀剣のお話をするのは違う分野。従って、何処の道場サイトでも余り採り上げられていない様です。

刀剣・刀装具は耳慣れない専門用語が多いので、なるべく解りやすく居合入門希望者や刀剣初心者向けに、ひらがな表記もしています。



剣士の愛蔵品

当会は武術を各自の体力に応じて修練をしようという団体ですが、関係者の中にはサムライ文化にやや踏み込んだ剣士も。そんな剣士の愛蔵品を紹介。

◎居合歴四半世紀、M氏お気に入り第一刀は9代三善長道
本刀は2004年10月に恩師の斡旋にて入手、鎬のある本造り短刀。因みに拵えは菊紋を散らしたその師の手による作品。信玄の『おそらく造り』程ではないが、横手がある切先は大きく伸びて冠落としの異風な姿。

新新刀期〜幕末は世の中が騒然として来る為か、九寸代の大柄な南北朝姿の短刀が多く見られますが、明治になると武器としての注文が無くなったせいか、小振りになる傾向が見られます。この長道も同様、やや短めな七寸四分、五十代の円熟期の短刀です。 明治三年に廃刀令、その翌明治四年秋の本作は、同郷の元興(薩州元平に学んだ)影響もあるかと思える出来。
切先が伸びている姿から、その元興師匠元平の様な薩摩刀の雰囲気もあって、煮え筋もあり覇気溢れています。「於三戸」と、居住地も刻まれ、長道は21年に70歳で没っしたそうです。
『何度見てもほれぼれするね。一時間観れる。』と氏は語りますが、そんな姿の時に奥方からは『未だ見てるの・・・』と奇人扱いとか。彼女には理解できない世界観だろうねと。
戊辰の会津戦争に敗北した会津藩は戦後改易となって、当時陸の孤島と云われた青森県三戸へ藩士は移住、長道もそれに従った様です。同国11代兼定の場合は明治2年から隣国越後へ行き、同7年迄滞在して順調に作刀活動をしたのと対照的です。



◎大振りな南北朝延文貞治形、彫のある新作短刀

クリカラのある短刀を定年祝いに考えていると館長に相談、健全で彫のある刀身だと予算的にハードルが高いという事で、館長懇意の無鑑査刀匠に大柄の短刀を新規製作依頼しました。短刀は初めてですが、今回で注文は4回目です。

刀匠さん自宅裏は竹やぶで、相当数を切まっくて強靭性を試されている武闘派。10センチ程の竹もズバッと切ってしまう腕前、令和の世では稀な存在。細竹や捲いたゴザを斬っているユーチューブ動画は良くアップされ、特別な感想は無いのですが、太竹ですと刃筋だけではダメで、腕力+@も必用と館長もそのコツを教えてもらいました。

近年膝を悪くされて、正座ができないとの話ですが、三尺を越す刀を打つ馬力は健在です。客間には自作の皆焼(ひたつら)の太刀写真が飾られていました。覇気満載。

備前長船正系の彫を貼ったイメージ画像を館長が作り、刀匠さんに送って打合せ。刃紋は山姥切で知られる長義の写しにして、差し裏は護摩箸に不動明王の梵字を加えるという図柄。
刀身が完成した後に彫師さんから下絵も送られてきました。

待つ事1年、相伝備前風の乱れ刃が焼かれ、身幅も刀なみにたっぷりした立派な短刀が出来上がりました。
刀身も彫も当代の名人ですから、剣士仲間からもうらやましがられて、満足至極。

いつも枕元に置いて寝ているとのお話です。大枚をつぎ込んだので、直ぐには出来ませんが、いずれは拵えを作ってあげたいとの事です。




◎作州津山の古民家から発見された鐔

コロナ感染が一寸少なくなった或る日、3年ぶりに剣士とあつまったところ、K氏から赤錆だらけの鉄屑に近い鐔を見せられました。奥方実家は築180年、柱も傾いている古民家でした。その屋敷を継ぐ人も無いので解体してしまったというのですが、その際に鞘の無い小脇差が発見されたというのです。
明治以降100年以上放置されていた様で、刀身は原型を留めない鉄屑になっていたそうです。赤錆にまみれた鐔の状態からも想像は難しくありません。

在銘鐔ですが、全体の輪郭もボケているうえに、朽ち込んでいる部分もあって、もう少し遅ければ透かしの丸枠も無くなっていた事でしょう。

『この鐔は要らないんですか?』と質問すると、長道持ち主のM氏が『家宝だからダメでしょう!』とコメント。『二ヶ月程預からしてください』と管理人が発言。

酷い赤錆を落とし、輪郭を整えて黒錆を整える等奮闘。銘も越前記内作とハッキリとして、図柄の毛彫りも良く見えて、販売品の様な見た目になり返却。この記内は福井松平氏の抱え工、葵葉(きよう)透かし鐔の製作を許されています。

本人作もあるのですが、大半量産工房の物。それが多く出回っています。この鐔は銘の鏨運びが良く、後代記内本人作と見える物です。身分制度のうるさい時代、現代の様に遠慮なく葵紋を鞘に施したり、葵の鐔を付けるなんて事は御法度だったと思います。作州津山も徳川家親戚筋の松平氏です。おそらく先祖の方が入植の際に領主から拝領された小脇差ではなかったかと思います。




◎肥後の頭(かしら)金具
熊本の肥後拵は有名です。この拵は殿様や高官を除き、縁(ふち)・頭(かしら)・鐔が同じ作家であることが稀。サムライの時代は、自由に取り合わせる事が多かったそうです。某所で江戸初中期の縁頭(ふちかしら)揃い金具を見掛けました。勿論無銘で、60万円以上。揃う事が稀だから余計高値相場。
前述の記内鐔同様に、肥後も名人クラスもあれば量産品もあります。幕末四谷界隈で造られた熊谷一派の江戸肥後は、揃い金具は珍くなく、価格も低めです。

注目され難い柄の端にある頭金具ですが、中々お目にかからない江戸初期〜中期頃とされる筋の良い名人クラス作品を紹介します。『やまみち』は、居合刀の現代金具にも採用されている定番デザイン。代表的肥後頭金具の一つで、下側からカーブを描いて上に向かい、また下るという事からそう呼ばれる様です。

画像に現代金具と時代金具を並べてみました。現代金具は色上げ渋め、管理に気を使わない銀製。稽古用にはピッタリです。時代金具はやまみちの彫下げが深く、シャープ。トロッとした波と明確な横線のコントラストが面白く、名人作は品格を感じます。とろみを出す工法は不明、鐔にもこの手はあります。

稽古用の刀だと、画像の様な筋の良い時代金具は傷めてしまうので、もったいない気がして眺めるだけ。
頭金具素材は、シボ革風が鉄。他は山金・赤銅地で色々な表情の波が描かれています。市販鉄工鑢等が無い時代、良くこんな表現が出来ているなと関心する品々、波の種類も多様(下画像参照)。
左下は江戸中期以前の変わり巻革柄で、新しい柄を製作する際の資料として貴重です。
◎S氏の愛刀 堀川國廣の高弟越後守藤原國儔(くにとも)
堀川國廣の弟子達には日向から上京した親族も多く、國儔もその一人。慶長年間の高齢になった國廣を補佐し、銘國廣にこの刀匠の『國』にそっくりな作品が少なからず存在している事から、代作もしていたとされます。その為作品は多くなく、年期のある作品も今のところは発見されていません。

銘は下に向けて文字が大きくなるのが特徴、後に開花した大阪新刀鍛冶の指導者。弟子にもこの手癖は受け継がれています。この人無くして越前守助広や井上真改の登場はなかったでしょう。
平造りで反り頃合、身幅4センチを超え、重ねも9ミリ程とズッシリ。如何にも豪壮な南北朝姿を再現した慶長新刀。京都の先輩鍛冶同様、地鉄は緻密な山城鍛冶の伝統を踏襲しています。


白鞘に収まり、現代人には余りに大きいので実務的では無く、注文主の嗜好で造られただけとも思えるのですが、深い斬り込み跡が棟に在り、拵えに収まっていた事が判ります。片手で敵の攻撃を瞬時に受け止めた剛の者、桃山期在京豊臣系武将の一人? それが誰で、また斬り付けてきたのは誰なのかは、この刀のみ知るところです。
金具も既製品では小さすぎて合わず、最初の拵はそれなりの作家に依頼して製作された桃山様式の物ではなかったかと思われます。



八岐大蛇伝説と日本刀の素材・製法

刀剣がらみの用語は、サムライの時代から150年余り過ぎた現代でも使われています。例えば『切羽(せっぱ)詰まる』『鎬(しのぎ)を削る』『たち打ち出来ない』等。居合剣士は刀を振り、業(わざ)によっては手で刀身を掴んだり添えたり、抜刀して指導をする為に会話もします。
愛好家は錆に気をつかうので素手で触る事はなく、刀を持って話すのはツバが飛ぶといった理由で厳禁。文化遺産が疵つくのも避けたいし、試斬(ためしぎり/しざん)という行為は極端に嫌い、相反する立場。辛口の愛刀家は『物を斬ってばかりいる方とは、お付き合いしたくない・・云々』と云われるので、この溝は簡単に埋まる事がなさそうです。

刀剣鑑賞は眼に見える姿だけでなく『煮え・匂い・映り(うつり)』等の専門用語を覚え、刀身に秘められた景色を角度を変えて眼で探り、理解するという経緯を必用とします。 是がまた敷居を高くしています。下の様な地刃に特徴・変化のある作なら別ですが、凡工・下作といわれるような刀や研ぎ減りした物は刃物道具の域内ですから、判り難さの一要因ともいえます。

昨今刀剣女子の出現で、年配の男性中心だった刀剣の展覧会も入場者8割以上が女性という事もある様です。  

2017年3月。名古屋徳川美術館所蔵で南北朝期の備前名工長船長義(おさふねちょうぎ)作品を『堀川國廣』が写した『山姥切(やまんばぎり)』という刀が、所有者の好意で20年ぶりに群馬県足利市で公開、その詳細は新聞記事を御覧下さい。

山姥切という刀剣乱舞のキャラクターは人気があるらしく、北関東群馬で平日というのに盛況。開場前でも略女性で占められた長蛇の列でびっくり。

相続等の事情もあり、所持者の意向で、この刀は2024年足利市管理となりました。


2018年秋は京都国立博物館で特別展『京のかたな/匠のわざと雅のこころ』が開催、日本刀創成期京都の著名作は勿論、在銘品少ない鎌倉期の粟田口一門作品が勢揃いするというのも目玉。
入場待ちのお客様は八割以上が女性。大型台風が関西地方に迫る前日が初日、アクセス良好な京阪七条駅徒歩5分でもあり、雨模様の中会場一時間半前に行ったのですが、二時間半待ちで大盛況。入場後、女性客三分の二がコラボ展の『刀剣乱舞』へ、しかし特別展も大混雑。



入口から三日月と太刀の大きなポスターが見え、NHK京都では入場者(若い女性)に取材をしていました。

友人の刀も特別展に出ていました。作品を提供した彼は、関係者だけで前日にゆっくりと拝見したそうです。


1997年に東京国立博物館で20世紀最大の刀剣特別展があり、三日月宗近はゆっくり拝見済。今回は大変な順番待ちの為割愛。東博の時は、非公開だった『大典太(おおてんた)』や『童子切安綱(どうじぎりやすつな)』『鬼丸国綱(おにまるくにつな)』等、アニメ『日の丸相撲』に登場する国宝や名物が並び、古墳時代から明治の刀匠作迄あり、話題になりました。

当時はゆったりと拝見できたのに比べると、刀剣博覧会も随分と変わったなぁとつくづく感じます。現在なら大変な騒動になるでしょうね。


八岐大蛇伝説と日本刀の素材・製法

日本刀は、粘土で築いた炉に砂鉄を入れてゆっくりと還元した純度の高い原料が必要で、硫黄等が混入する溶鉱炉の鉄は鉋・包丁等の工具刃物には問題無くとも、日本刀製作には適しません。
このたたら製鉄は、アニメ『もののけ姫』にも出てくるシーンで、3日程不眠不休の作業。畳数枚分規模の『ケラ』と呼ばれる鉄塊が生産されます。

鉄は戦闘用の武器類を作る材料のみでなく、寺社の金具や民具・農具にも使われます。砂鉄は全国に存在しますが、中国山地は良質な玉鋼(たまはがね)原料と、炉に必要な炭の素材になる森林資源も豊か。

出雲地方に伝わる火を吐く八岐大蛇伝説は、数日間も山に炎の明かりが点々と見える事から、八岐大蛇伝説として語られてきたという説があり、一方出雲の斐伊川が度々反乱を起こした事も関連があるという説もあります。
山地の奥にあるトップシークレット製鉄拠点は、庶民が立ち入り出来ない軍需基地ともいえる場所だったのでしょう。

現在大型のたたら製鉄を行っているのは、唯一出雲地方の横田町にある施設で、冬季のみです。
生産されたケラを割り、原料として全国の刀匠に分けられます。
刀匠は供給された玉鋼を選別し、鍛冶場で鉄を赤めて、叩き折り返すという作業をし、板状に鍛えて形を作ります。



11世紀頃に中国地方の伯耆国(鳥取)で、童子切で知られる『安綱』が登場します。又、朝廷のある山城(京都)でも三条小鍛冶『宗近(むねちか)』が出ます。上記京博のポスターの太刀がそれで、三日月宗近として知られています。
鎌倉初期になると、刀剣に関心を持った後鳥羽院が備前・備中・山城刀工を月番で呼んだという伝承があり、国のトップと工人が共同作業をしました。こういった事もあれば気概が高まり洗練度も上がります。

『刃紋は備前一文字(いちもんじ)、地鉄(じがね)は山城粟田口』という言葉があり、何れは手に入れてみたいという愛好家の気持ちを表わしている言葉。とはいえ、800〜700年前の作品ですから、研ぎべり少ないコンディション良好な作品となれば、実現は中々難しい様です。


太刀と刀

太刀は刃を下にして紐で腰に結び、吊るす形式です。剣士として知りたい源平時代から南北朝時代の太刀捌き・業等の伝承は残念ながら殆どありません。

南北朝期の太刀姿は、かなり変化が出て来る時代。元寇の後、作りが強化されて中期には切先(きっさき)は伸びて長くなり、5cm 以上になる大切先。刃渡三尺(約91cm)、全長110cmを超える長さの物も現れ、この時期の姿を延文貞治(えんぶんじょうじ)型と云います。実用に振るには重量バランスも大切なので、『樋(ひ)』という溝を刀身に掘ったり、刀身を薄くする等の工夫も見られます。

この騎馬武者絵、南北朝時代の足利尊氏とされていましたが、配下の『高師直(こうのもろなお)か、息子』ではないかという説も。決定に確証なく、位の高い武将というところに現在は留められています。実はこの絵、私達に重要な事を教えてくれています。左腰には、刃渡30cm前後黄金造(こがねつくり)の腰刀が見え、虎毛の黄金造太刀を一つ下げています。

太刀刃渡60cmとすると、肩に担いだ大太刀は五割ほど長く、南北朝時代中期全国的に流行した大太刀の姿を想像できます。

南北朝が統一された応永(1394年)頃から、太刀を短くし、刃を上にして添差しする『打刀(うちがたな)』が出てきました。是が今日いう刀の始まりとされます。武者の主たる腰物は太刀ですが、江戸期の大小とか二本差しと呼ばれるスタイルの原型。

応仁の乱(1467年)前後辺りから、前線のサムライは、長短の打刀2〜3本を帯びる事もあった様です。
実際、攻撃への即対応という意味では、中切先が抜き差しに頃合いで、文明〜永正頃の左京亮勝光父子や与左衛門祐定等の姿が良いと思いますが、健全体なら高価過ぎて居合刀に使うのは現実難しいでしょう。


茎(なかご)と錆、在銘と無銘

前述の兼光は、尊氏がパートナーに迎えたとの伝承があり、キレ味優れた大業物(おおわざもの)と知られます。戦国時代に2尺一寸(約63センチ)〜二尺三寸位に短くされ、打刀用に改造されました。
作者名は失われた姿になり、是を大磨上(おおすりあげ)無銘と云います。実戦での消滅に加えて磨上が行われたので、在銘の南北朝延文期太刀は少なく、短い腰刀が多いという事になります。

柄に入っていて見えない部分は『茎、或いは中心』と書き『なかご』と呼んでいます。茎には穴があり、目釘(めくぎ)という竹製の棒で刀身を柄に固定する所。目釘穴とか目釘孔(めくぎこう)、作者が空けたものは、生(うぶ)穴、或いは生孔といいます。
南北朝以前の生孔は、ややイビツで味があり、中にはヒョウタン型の物もあります。末古刀期には、回転する切削道具も良くなり、穴の形も奇麗。

美術品としてみると、生茎在銘目釘孔1つが理想ですが、古刀の目釘孔数については、左程云々されません。これが桃山以降江戸期の物になら目釘孔が多くなると、厳しい愛好家には敬遠される傾向があり、磨上無銘なら市場評価は大幅に下がります。

無銘刀は大磨上の他、製作当時からの物もあります。例えば、寺院に属した僧兵用鍛冶大和刀工は、グループ内の需要を賄っている立場で、銘を切る必要がなかったとされています。従って南北朝以前の大和物は、多くが無銘です。

銘を潰した刀は、出所を知られたくない盗品や、当時の権力者から追及を逃れたかった作にあります。その他腰元に欠点や刃こぼれ、折れたり曲ってしまった物等、他に偽銘・偽物の茎を再加工した無銘物が考えられます。その手の作品は茎の形の崩れて、仕立が良くないという事があります。

道具として考えると、所有者が体格に合わせて長さ調整は普通に行われました。銘が残っている物は磨上(すりあげ)、茎はそのままにして刃を少し短くするのを『区送(まちおくり)』といいます。銘が無くなっても、大業物に自分の命を託し、当時の武将は帯刀して戦場に出たわけです。現代人は美術品と見てしまいがちな名刀が、本来命を守る武器であった事を知らされます。

茎は研磨しないので黒錆に味があり、磨上物は錆にムラがでます。鍛えの良い大磨上物には、茎の上方に錆が着き難いともいわれます。新々刀で保存が良い物は、下の太刀の様に黒錆が余り付いてない物もあります。逆に赤錆が多い場合は放置されて、手入れされなかった状態で近頃出てきたという事が考えられます。

戦国期は備前・美濃が大生産地。量産乱造品が多く、末古刀(すえことう)と表現され評価が低い物です。その中で、文字鮮明で字数が多い物は仕事も入念です。注文者の名が切られていたり、それが著名武将であると価値も上がります。



刀匠データと書物

刀匠データは鎌倉時代から僅かながら残っています。原書は無く、記録としては3代執権北条泰時の『泰時評定分』、五代時頼の『最明寺殿評定分』に著名刀匠の名前があげられていたという事ですが、系譜を含めた特徴を記す全集の様な物として正和5(1316)年の『銘尽』というのが最古とされています。
是も原書ではなく、京都の観知院にあった応永時代1423年の写し本。2017年に発見された佐賀の竜造寺本が観応2(1351)年。2021年2月に修復を終え、一時公開されました。足利直冬か側近が持っていたものを竜造寺家関係者が写本したのではないかという事の様です。

系図や特徴はともかく、茎の図は稚拙で現物との比較は中々難しいですが、当時としては貴重な資料。記載は正和以前に活躍した刀匠という事なり、京鍛冶のページでは五条国永、粟田口久国・吉光・国光、来国行・国俊、粟田口国友というのが確認出来ます。 室町時代中期、足利義政の御側衆に刀剣の研ぎと鑑定をする本阿弥(ほんあみ)一族があり、桃山時代になるとその子孫が太閤のコレクションを描いた『本阿弥光徳刀図絵』とか、摺上や金象眼の依頼を受けた埋忠家の『埋忠押形』が残されます。

記載数では2700以上という加賀本阿弥家にあった『光山押形』は著名で、子孫が所有していたのですが、維新後借金返済の為売りに出され、購入した団体が限定再版しました。
江戸初期に研ぎや鑑定依頼で、大名家から本阿弥家に来た刀の茎等が記録され、銘の位置や目釘孔にずれが出ている物もある様ですが、当時の待ち主や現在年期作が確認出来ない刀匠、字体が異なる作品、在銘少ない相伝系の作品もあり、資料としても面白いものです。


腰刀の種類

太刀は断面が菱型で鎬(しのぎ)造り、或いは本造りと云います。それ等とは別に21〜24cm前後の短い刀も太刀と併産され、鎬の無い『平造り』が大半、本造りは少数です。他に菖蒲の葉の様な『菖蒲造り』『鵜の首造り』。特殊な物では、平造りの先半分程棟方を削いだ『冠落(かんむりおとし)造り』等があります。
現存品は鎌倉中末期以降多くなり、南北朝になると太刀同様大柄に変化し、30センチを越える物も登場します。幸い年期のある作品も出てくるので、全体の時代変遷は掴みやすくなってきます。

応仁の乱後、文明年間になると冠落の棟を腰元迄伸ばした様な姿で、鎧の隙から突き通せる殺傷力の高い両刃(もろは、諸刃とも表記)が、備前を中心に登場します。






加藤清正が家康と秀頼会談の際に懐に忍ばせていたのも、永正期(1504~)の備前祐定両刃だったそうです。この年紀で一桁の物は、優れた作が多く『永正祐定』として知られています。
天正時代頃迄で終焉する姿。短刀愛好家なら一つは持っていたいというスタイルです。


現在銃刀法の分類上、刃渡り30センチ未満の長さを短刀とされていますが、当時は40〜50センチでも腰刀、脇差、刀等と呼称されていたそうです。
脇差の場合、銃刀法では60センチ未満30センチ以上がそれに該当します。




紹介は前後しますが、2009年静岡県三島市にある佐野美術館で、名短刀に絞った特別展があり、亡き父と出かけました。館長は刀剣女子の走り(?)、何度か教えをいただいた師でもあります。佐野美術館はこじんまりした建物で、蔵刀も充実しており、その他色々な企画展も開催されています。

今迄、短い物に特化した特別展は例がなく、鎌倉初期後鳥羽院の月番鍛冶粟田口久国から、幕末の源清麿迄52点。加えて室町・桃山の拵6点。
在銘少ない大和の保昌貞吉は、1997年以来二度目の拝見、柾目にニエが絡んでキラキラとして美しい。同国の当麻(無銘)の名物も二点。さすがに展示の仕方が上手く、京博とは違い十分な鑑賞出来ました。開催期間に一度館長のレクチャーもあり、参加。

短い作品は、刀匠の思いが凝縮されて、長物とは別の趣。又、愛好家にとっては、生茎の在銘が入手出来る可能性もあるといった魅力があります。常々剣士として刀を振っていますと短い物には目が行かないかもしれませんが、チャンスがあれば拵も含め視点を変え眺める事も、刀剣文化を知る一手段だと思います。


居合 清蓮亀翠第一会場

〒208-0012
東京都武蔵村山市緑ヶ丘1460‐1111

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