比較的大きな大三島は伊予と安芸の中間点にあり、古代から水運の要所。源平時代から多くの武将が甲冑を奉納した為、国指定の重要文化財・国宝の4割は此処に集中しているとされ、甲冑マニアにはたまらない所。私達のグループで、新規に鎧オーダー経験のあるⅯ氏も訪ねてみたい神社の一つに上がられている。
2022年大河に登場した義経・頼朝・木曽義仲の鎧や、鶴姫使用の女性用鎧もあり、伝弁慶や山中鹿之助奉納の薙刀も展示。加えて平安期初期の太刀も多く残され、姿の変遷も視覚で確認出来ます。
境内は楠自生林の為風吹くとさわやかな香りです。
百済・高句麗を滅ぼした新羅・唐の連合軍が、日本に攻めてくるかもしれないという東アジア情勢の中、朝廷はこの地域を守る為四天王(古代は大野)山一帯を城塞化。七世紀の石垣が現存しています。この城址は広大ですから、天候に恵まれ、且つ充分な時間が必要、オマケに山道で健脚向けです。
https://www.town.umi.lg.jp/soshiki/12/oonojou.html
◎博多献上帯
居合の稽古用の帯がボロボロになり、どうしようかと母に来てみた所『帯刀するなら筑前の博多献上帯が良いらしいよ。』とコメントをもらいました。彼女はお茶もお花も師範、仕事は前進座で和服の仕立てをしていたので、着物には詳しい。その頃、西陣の博多献上柄は一つ持っていたのですが、筑前織とどう違うのかは知りませんでした。
福岡出張した折に西鉄を利用して、作業所を訪ねてみる事にしました。着物は女性が主体の市場なので、男物帯は種類が少ないとの事です。見学中の話で、博多祇園山笠の祭りでは相当な水がかかるのですが、こちらの帯は洗っても大丈夫だという話を聞きました。『打ち込みが強くてしっかりしているので昔から刀を差すには、良いといわれてます』と最後に話されたので、是だと思った訳です。
暑い時期の稽古は着物を着ているので、汗を酷くかいて帯がびしょびしょになります。絹製品では洗濯が出来ないからと思っていたのですが、軽く押し洗いをし、陰干しで問題なく使っています。
『帯刀する為に帯を探しに来た方は初めてです』と云われ、以来たまに伺うと、新デザインの物を御案内いただいたりします。
山形県酒田市の北東約10kmに、昭和初期発見された出羽国府(800年代末~)とされる国指定の史跡。北側に鳥海山を臨み庄内平野の中。一辺が約720mの四角形と、広い敷地は田園地帯の為、周囲に高い建物がありません。正面門が復元されて、入場も無料。現在は平野の中といっても開設当時は潟に近く、高句麗の遺臣が建国した渤海等との交易窓口、蝦夷支配関係でも重要な拠点。出羽山地にも近い所で、木材の調達も出来る場所です。
平安時代後期、源義家は1083年陸奥守となって京都から派遣された時、後三年の役に絡んで此方にも来ていると思います。12世紀には荒廃し、以降数百年忘れ去られた場所となってしまった様です。
少し北に行った海岸沿いに鳥海山からの伏流水が湧き出ている所があります。興味深いのはそこに見られる帯状の砂鉄です。水が豊かで、森林資源だけでなく、砂金や鉄資源もあり、豊奥羽地方の蝦夷は武器・農具を地元生産していたと思います。月山や舞草といった鍛冶集団も知られています。頼朝以前、源氏の宝刀にも奥羽鍛冶の作品があったという記録も。
もっと知られても良い所ではと思いますが、どうも文化遺産史跡は西高東低になり、更に北辺では押しが弱いという事でしょうか。
友人から革の鎧が着れるからと誘われて、出張の折バイエルンの北部で行われた中世のフェストに参加。プラハに掛けて古城が遺る古城街道のルート上に有ります。
革の鎧を着てみました。日本の甲冑よりは軽量ですが、ずっしりと重くて俊敏な動きは難しく、鎧はオーダーメイドで納期は二ケ月以上、1500~2000€だそうです。剣も重く叩きつける様な武器で、切れ味とは無縁。元寇の時、蒙古軍は革の鎧だったそうなので、こんな感じだったのかなと思ったりしました。
因みに鎖カタビラも着てみるかと云われたのですが、それは遠慮しました。
備中水田国重後代に女国重(おんなくにしげ)という刀鍛冶がいたそうですが、こちらの女性も鍛冶屋さんです。
売店も出ていて軽食も採れ、500㎖売りの地ビールカウンターがありました。生ビールはMönchshofのKeller(ケラー)とWeiss(ヴァイス)、つまみはヴィーナーヴルスト、細目のソーセージでウィーン風。十分満たされますが、友人等にとってはおやつです。
ローストやや強め褐色のケラービール、醸造所によって濃淡があります。地下で醸造したという意味合いもあり、南ドイツでも余りお目にかからない種類。ヴァイセはバイエルン固有の名称。パンのビールともいわれ、他の地域ではWeizen(ヴァイツェン)と表記されます。小麦を50%以上使った上面発酵のビールでアロマが豊か、甘い香りもあります。英語圏ではホワイト・ビール。
バイエルン北部フランケン地方は地ビールのメッカ、小さな街でも自家製ビールを製造提供する飲食店が多く、ビール呑み助にはパラダイス。一般に酵母を濾過しないので、日本大手ビールとは違い、濁り酒ならぬ濁りビールが主流です。
備中松山城は伯備線の備中高梁駅下車、天守を目指します。健脚の方は天守やその先の大松山城址へと行く事も可能ですが、登山になるので終日の予定を立てないと難しいでしょう。
大手門櫓跡が、私的にはハイライトだと想います。石垣が凛々しく立ち上がっていますので、ゆっくり眺めるのも山城マニアには楽しみです。山城巡りをすると、それぞれの処でどれだけの労力を費やしたのだろうと思ってしまいます。
シャトルバスを利用すると、ふいご峠迄アクセス出来、ゆっくり小一時間見れば松山城に到着します。自家用車はこの峠迄行く事が出来ないので、途中の駐車場に置き2時間半程歩くか、シャトルバスを利用します。
当会に参加されている80代のTさんも、2019年に奥様と出かけられたそうで、思わぬところで共通点が判り城談義になりました。
十代最後の年、初めて濃尾地方を一人旅しました。先ず訪問したのが犬山城、名鉄の犬山駅下車で徒歩15分程度、城下町を散策しながらだともう少し掛かります。天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康が築城したとされます。
望楼型天守の構造。平和な現代は、天守に上がり望楼から周辺を眺められて、木曽川上流の犬山橋方向には爆発した木曽御嶽山の姿も見えます。しかし、戦国時代なら緊張のある国境。木曽川を挟み濃尾平野の奥手山上に5㍉程の大きさで斎藤道三の岐阜城(再建)が幽かに見えています。
初訪問時、城が旧城主成瀬さんの持物であることを知り、維持費が入城料だけで賄えるのか、さぞや大変ではないかと思いました。平成16年迄個人所有の城でしたが、現在は『財団法人犬山城白帝文庫』の所有となり、御一族は肩の荷が降りた事でしょう。
成瀬家伝来の刀剣類は沢山ありますが、平成に入って公開された『吉光(粟田口)』の刀は一寸特別な物です。明治以降吉光は殆どが短刀という定説。焼け身(火災に合った物)でない長寸在銘吉光は無いとされていたので、日本美術刀剣保存協会の重要刀剣審査合格の一覧に記載されていて驚きました。翌月かその後に申請者成瀬氏の投稿が記載されていましたが、内容は余り覚えていません。
現物を拝見したところ、身幅広く、元先の差が少なく刃は低い。広めの樋に変わった連樋が小鎬に沿って切られています。茎尻は切られ、刃先は微妙ですが、姿は留めています。茎の形に掻き流した樋の様子が見覚えあると思ったら、所有する江戸期の押形集に『成瀬隼人殿所持』と出ていました。
成瀬正成が官位を受け隼人正となったのは1607年、没年は1625年。その間に押形を一度採ったという事になります。長寸の吉光所持記録があるのに、何故今迄知られなかったのは保存状態等の諸事情があったのでしょう。別の江戸後期押形集には茎下に『切』と書かれ、切り詰められたとい意味だと思います。現在の形に近いと思います。
尼子氏の居城は、旧広瀬町(現安来市)に属しています。月山富田(ガッサントダ)城と居合剣士に話すと『山形県にある城跡?』と答が返って来る事が殆ど。出羽の月山が有名過ぎる為でしょうが、出雲だといってもピンとこない様です。
最も隆盛を誇ったのは84歳迄頑張った経久(1541年没)の時代、中国の覇者は出雲大社の造営をしたり、財力・軍事力も相当あったのでしょう。経久と同時代に生きた名工の勝光が備前長船にいました。その作品の中で、『次郎左衛門尉勝光
子次郎兵衛尉治光/一期一腰作之佐々木伊予
佐々木伊予守とは尼子経久の事。経久のルーツは、近江の佐々木源氏なので、勝光にこの名を切らせたと思われます。おそらく、武将経久好みの姿に仕上げた勝光親子の会心作に違いありません。
遅れて、一騎打ちでは負けた事がないという尼子氏の猛将、山中鹿之助幸盛の刀も重要美術品として遺されています。是は与三左衛門尉祐定で、略経久の刀と同じ長さ。腰元三分の二程は乱れ刃ですが、切先に向かって次第に相伝風の皆焼(ひたつら)になる見事な刀です。
彼は天正六(1578)年に、毛利勢に生け捕られて斬首されました。後に入手した武将が年期を削り『山中鹿之助脇差剣也』と切付銘を入れています。この64cm強の刀を脇差と切付しているのが、当時の呼称を知る上で興味深いと思います。多分鹿之助は、この刀とは別に長い太刀、短い腰刀等を身に着けていたのかもしれません。
大規模な山城は難攻不落。中段の中山御殿も敷地が広く、二の丸に行くには更に登山道を上がる必要があります。山頂部では郷土史家の方に会い、当時は広瀬は出雲で最も栄えていたと聞きました。又、川の向こうに良い作り酒屋(吉田酒造)があるとも教えていただきました。
『現在この辺りは、足立美術館が観光のメインで静かな町ですが、富田城にも来て欲しい』との事でした。確かに魅力がある所です。足腰の悪い方は下の資料館で楽しむ事も出来ます。足立美術館は横山大観のコレクションと借景の日本庭園で知られます。管理人も、ひいお爺さんが大観と交友があった関係で、何度か訪問した事があります。
☆粗挽十割蕎麦
十割蕎麦とはつなぎを使わない蕎麦の事です。ウドンの小麦粉と違い、蕎麦粉だけでは製麺し難いので、手打蕎麦屋さんでは小麦2:蕎麦粉8の比率の二八蕎麦が中心。是が7割、6割、5割と下がると作りやすく原価も下がり保存がきくという利点もあるのですが、ウドンに近づいて蕎麦の風味が薄れ、乾麺では蕎麦粉5分(0.5割)でも、蕎麦と表示出来るそうです。
東都でも、十割蕎麦を提供するお店は少なからず存在しますが、十割蕎麦と云っても、その多くは丸抜きという蕎麦の殻を割った実を細かく挽いた粉で打たれます。旨味成分の強い粗挽粉を使った物は粉をまとめる製麺も難しく、裁断作業で崩れたり、茹で上げ時に雑な扱いをすると折れてしまいます。
粗挽蕎麦は未だ蕎麦通のみに知られる食文化かもしれませんね。製麺・茹上が上手な所なら、蕎麦もモッチリして甘味もあり全く別の趣です。
◎出雲のお気に入り十割蕎麦屋さん
1)稲田姫ゆかりの神社にある社務所が店舗。自家栽培出雲産100%の十割蕎麦は標準より一割強多目170g、お値段頃合いだからおすすめです。蕎麦通にも喜ばれる希少種の横手小蕎麦(品種名)は、やや黒い透明感のある出来、見た目も奇麗です。売切れ御免、出雲横田駅から徒歩25分程度。
2)出雲三成駅徒歩27分程度、十割蕎麦屋さん。店主一人の切り盛りなので、週末は待たされる事があります。税込800円からですが、都市部の大盛以上ある200g。粗挽きの野趣あるやや太めのお蕎麦、在来種100%ですからお値打ちです。大盛は+200円で300g、平日ランチ(1000円)有、是も鴨燻製付きでお得です。近くなら通ってしまいそうな蕎麦屋さん。
3)松江市内、中国山地蕎麦の専門店
島根に来てわざわざ北海道の蕎麦をいただいても、面白くありません。松江市内にある某店は、中国産地の在来種を十割で提供しています。在来種は品質改良していない固有種です。実が小さく沢山収穫出来無いものの、より旨味・穀物感があります。
此方では通常の丸抜きの他、蕎麦殻ごと粗挽にした野趣のある蕎麦をレギュラーで提供しています。是を玄蕎麦粗挽とも云って、香りが強く甘味もある蕎麦通には大変喜ばれる蕎麦です。
殻は風味を上げる要素ですが、全く繋がらない要素でもあり、玄蕎麦粗挽となれば、丸抜き粗挽に比べより困難な製麺作業となります。従って此方の粗挽蕎麦も太目で長くありません。
一般に流通の無い中国山地の在来種を自分でも打ってみたくなり、話をしてみると『ウチの粉は難しいと思いますよ』と云われたのですが、無理を云って蕎麦粉を少し分けていただきました。
帰宅後直ぐに十割で蕎麦打ち。確かに水加減が難しかったのですが、思い通りの出来に満足。蕎麦湯も自然なやや色の濃い物で、良いお味でした。
◎露天風呂
島根県内、色々な温泉があります。此方もその一つで、静かな某所に川底から湧出する場所があります。適温でアルカリ泉(多分)、お肌に優しい泉質です。河岸周辺から湧いているので、適当な所を選んで入浴。
脱衣所はありませ。二時間の入浴中に人影は無し。地理的に、夏休以外は殆ど人が来ないのではないかと思います。
後醍醐天皇と足利高氏らが建武の新政を成した後、天皇の名の一文字をいただき尊氏と改名。後、不和となり、時代は南北朝へと移ります。一時期尊氏が後醍醐天皇勢力に敗北し、九州に逃れる時に寄ったとされるのが、備前長船。
当時の棟梁鍛冶は兼光。戦国期の武将から切れ味抜群と評価されている大業物を世に出した優秀な刀鍛冶というだけでなく、武器である刀剣生産を仕切る長船4代目社長です。
尊氏としては刀剣大生産地備前の棟梁を、何としてもパートナーにと願ったに違いありません。その後体制を立て直して九州から戻る途中、兼光から武器(刀剣類)を調達していると思われます。やがて湊川で楠木正成を破り、上洛を果たしました。
その後尊氏が兼光に広大な地所を与え、それに大きな堀をめぐらし、屋敷を城塞化。それが『城の内 伝兼光屋敷』として伝承されています。後は後裔の棟梁鍛冶が継承した様です。
兼光没後百余年を経て応仁の乱の後、備前福岡の支配権を巡って山名氏と赤松氏間で争いが絶えず、文明15(1483)年に長船も戦火を受け、この屋敷も焼かれてしまいました。
其の頃の棟梁鍛冶は右京亮勝光・左京進宗光の兄弟。細川氏の領地児島に逃れた翌年作(かたなトークで紹介中)が遺っています。長船は永正以降も鍛刀は引き継がれます。
兼光屋敷の痕跡や多くの周辺工房が壊滅的になくなってしまうのは、天正19(1591)年吉井川の大洪水。多くの刀匠・刀職者は流されてしまい、山津波もあったらしいのです。祐定系の数名が生き残ったに過ぎず、長船の刀剣量産体制は終焉となりました。従って名刀を沢山産んだ地なのに兼光屋敷跡に限らず、天正以前にあった刀匠の足跡は殆ど残っていません。
現在確認出来るのは、一寸古墳のようにも見える小山が二つ。大きな方は江戸以降の刀匠墓石があり小さな方は堀跡に面しています。堀跡というのも地元のお父さんが通りがかって『何を捜してる?』と聞いてくれ、ガイドしてもっらたから判ったので、そうでないと水田の一分に見えてしまう遺構。4回程は来ているのですが、それ迄は何だか良く判らないという場所でした。
この方によると『南側にも堀跡があったが、地権者に埋められてしまった。西側は近頃埋めて畑にしてある。残っている北側堀跡はレンコンを植えて栽培していた。』というのです。この方の蔵には折りたたみの船があるそうで、水害の際は乗れるようにと先祖が遺した物だといいます。
確かにガイドに従って歩くと、人口的にカーブを描いた堀跡らしき線が浮かび上がり、航空写真で確認すると北側のみですが、JR赤穂線の方迄伸びていたようにも見えます。
◎鹿児島
寺田屋で襲撃を受けた龍馬は、西郷の進言で療養の為鹿児島城下に逃れ、後に霧島温泉郷に長期間逗留したそうです。土佐も南国ですが、故郷よりかなり遺風に見えたらしく、桜島も霧島連山も活火山でもあり、逗留地の温泉郷も現在と違って車道もなく、さぞかし幽玄な感じに見えたと思います。
◎霧島温泉と天孫降臨の地・高千穂の峰
龍馬逗留先の1つ塩浸温泉は一時閉鎖されていましたが、現在は塩浸温泉龍馬公園として復活。龍馬資料館(有料)もあり、周囲にハイキングコースもあります。
霧島は島津領内、現在は宮崎県と鹿児島県に跨り、各所に泉質の良い温泉が湧いています。5月の中旬から6月初旬にかけて高山部ではミヤマキリシマという花が咲きます。中でも『天孫降臨の地』とされる龍馬とお龍が登った高千穂の峰が美しく、盛期は斜面が淡いピンクに染まり、この世の楽園の様に見えます。
下界のミヤマキリシマは、ツツジにしか見えませんが、標高が上がるガレ場になると植生が変わる様です。高山植物の様に低木になり、色が鮮やかに見えます。
さすがの龍馬も、このガレ場には苦しんだ様で、土佐の乙女姉さんにそんな内容の手紙を絵をかいて送っています。登山靴は無く草鞋ですから、それは楽ではなかったと思います。
最初のガレ場を登りきると、馬の背という火口の尾根道を歩きます。花の時期は、斜面にミヤマキリシマが咲き集います。その後高千穂の峰に向かう二度目の急なガレ場を登り、頂上へ向かいます。
龍馬が何処の温泉から登山を始めたのかは明らかではない様ですが、馬の背を歩いたのは間違いない様です。一番高い温泉地からでも結構な登山ですし、おりょうもそれに着いて来たのですから大した健脚です。この山は韓国岳から見る姿がまた美しく、天孫降臨の地といわれても納得できる様な景色です。
因みに高千穂の峰山頂には『天の逆鉾』が刺さっており、竜馬は是を抜いてみたという事です。現在はレプリカ、正真は下界に降ろされていた様ですが、現在所在不明だそうです。
西郷は明治政府内で征韓論にやぶれて鹿児島に帰郷、愛犬を伴って狩りをしながら霧島山中も良く訪れたそうです。その中の一つ、龍馬が訪れたかどうかは不明です。火山の水蒸気を利用した珍しい天然サウナ(蒸し風呂)があります。始めて訪れた昭和の終わり頃迄、温泉の川から引いた打たせも二条ありました(現在は廃止)。
余りにグツグツと迫力ある蒸気の音に、当初入って大丈夫なのかと躊躇しました。確かに強烈な熱気ですが、入ってしまうと案外耐えられます。当時は未だ混浴で、地元の女性がいたのに驚きました。『気持ち良かですよ、体が軽くなりますが(軽くなるの意)』と云われた女性の言葉を思い出し、また平成18年に亡き父と5日程逗留した事もあります。
現在は男女別浴で、蒸し上がった体を山の清水で冷却するのを繰り返します。別棟に内湯と露天風呂があり、泉質はやや酸を感じる湯です。
◎肥前長崎
怪我が癒えた龍馬は、自身の商社がある長崎へ向かいました。
龍馬が運営していた亀山社中の建物は、現在も風頭山麓の同じ位置にあり、所有者の好意で長崎市が管理運営。『亀山社中記念館』として公開されて、オリジナルカラーパネルも販売されていました。
下からの登りがあるので見晴らしは良好、長崎の入り江が良く見降ろせます。現在は近代的な橋が架かってはいますが、龍馬も同じ景色を眺めていたのかという気持ちになりました。
路面電車が行き交う谷へ降りると、新中川町駅の北東にシーボルトの居住地跡、シーボルト記念館を訪問する事が出来ます。
長崎の味を楽しむべく市内を散策、全国に知られるカステラの本店を発見。御土産に購入、『製法は譲っていますが、お味は違います』確かに使っている卵が地元産故か、濃い味わいの様な気がしました。他にも他県に進出していない異人堂を始め、福砂屋等人気のカステラ店があります。
夜は思案橋界隈を散策し、五島列島直送烏賊の刺身を堪能。
圏央道トンネルの上に位置する八王子城は、秀吉軍に攻められ天正18(1590)年に落城。徳川政権下以降は、史実と共に埋もれていた時期が長く、城全体が広範囲で不明な部分が多い山城です。又、此処に攻め込んだのは『真田正幸』『上杉景勝』『前田利家』であったというので、大河ドラマにもなりそうな桃山期の名武将達。
昭和末~平成で発掘調査も進み、ヴェネツィアグラスや中国製白磁等の埋蔵品が発見されました。是により関東の覇者北条氏が独自に交易をしていたか、何らかのルートで輸入製品を得ていた事になり、興味深いところです。
本丸跡や大天守は登山になるので足腰の悪い方は上がれませんが、川沿いにある城主の北条氏照(氏康3男)が執務を行ったであろう『御主殿跡』は当時の趣を残す石垣も見られ、散歩がてらに訪問する事が出来ます。
御主殿に来ると庭園の跡や碇石があり、未だ見つかっていない部分がありそうな歴史ロマンを感じさせてくれ、歴史好きの方には東京近郊の城跡で一番のお勧めスポットでしょう。
関東の刀鍛冶は当初鎌倉が中心でした、京都の粟田口国綱や備前一文字助真・三郎国宗等一門を鎌倉へ呼び寄せたのが相州鍛冶のルーツ、やがて後北条氏が勃興すると小田原が主要地になります。
16世紀に小田原相州系刀工が、恩方の下原に移住したのが山本姓の周重(ちかしげ)で、武器の需要をまかなっていました。当初は入間・多摩郡を支配した鎌倉山内上杉氏の臣下大石氏に招かれたという事ですが、後に北条勢力に取り込まれて北条氏照が娘婿となります。山本周重二代は北条氏康の康の字を拝領して康重と名乗り、その弟は氏照の照をいただいて照重と名乗ります。
氏照は大石氏の山城浄福寺城や滝山城を拠点にしましたが、武田軍にあわやというところまで攻められ、食止めはしたものの、より守りの強い城として八王子城を築いたという事の様です。
八王子城は家康江戸入府後も放置されましたが、武蔵国内での大きな刀工集団は下原一派のみで、武器補充の為に北条氏に仕えた下原一派の所領はそのまま認めました。その代わり千本の槍を納める事を命じたという記録が在り、一門は幕末迄続きます。
八王子市下恩方に人知れず『下原刀鍛冶発症の地』という石碑があり、碑文によれば昭和43年3月となっているので、圏央道が開通するずっと前からある様です。
下原刀は東京多摩地区郷土刀で、福生郷土資料室にコレクションが多く、特別展等で公開されます。この一派は武用・実用向き、美濃等の末古刀一類同様下作とされて、美術品としては余り評価されません。しかし、初期作(周重・康重初代等)は相州風のタナゴ腹の中心で、作風も本筋を思わせるものもままあり、戦後食べられない研師が刀身をわざと研減りさせ、銘を落とす等細工し、出世(高名相州刀工無銘として販売)させたといった逸話も。市場の中には相州上工作となっていても、実は下原作という物があるのかもしれません。
古くは桃山時代豊臣家の御用を勤めた京都の堀川一門作も、無銘にすると相州工作にまぎれ、又相州在銘が少ない事を利用して、故意に太閤が無銘の偽物を造らせ恩賞に与えたのではという話もあるので、ややこしい事です。
『 雨は降る振る じんば(人馬、又は陣場)は濡れる 越すに越されぬ田原坂
20代の頃、鹿児島本線で福岡から熊本へ向かった時に同席の方から『左手が田原坂の方ですよ』と教えていただいた。現在の田原坂駅から徒歩で行けない事もないのですが、山の尾根を歩くルートで散策すると半日は掛かってしまう為、初めての九州旅行では熊本城や阿蘇訪問を優先しました。
山間の水田に鉄道が通り、舗装道路もあると、田原坂の幹道が軍隊移動唯一のルートだったという事が現代人には想像し難いです。豊岡眼鏡橋から一の坂へ上がって行くと、今でも鬱蒼としている所。もし切込隊が潜んでいたらと思うと、政府軍の恐怖は相当なものだったに違いありません。某師の三代前、熊本軍として白兵従軍したそうですが、生還されたそうです。その時の血生臭いお話はされなかったのか、エピソードは伝えられていません。
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