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刀剣を彩るもの達の紹介 Iai Seiren Kisuikai 

鐔と刀装具 Tsuba.uzw


◎刀剣を彩るもの達

刀剣に花を添える刀装具で、一般的に御存知なのは鐔(つば)ですね。

その他色々な周辺部品等、刀をとりまく物達をとりあげようと思います。

なるべく解りやすく、居合入門希望者や刀装初心者向けに、ひらがな表記もしています。



打ち刀拵(こしらえ)

刀を収めている外装は『拵(こしらえ)』といいます。寺院に寄進された太刀拵は、南北朝以前の物も遺されています。残念ながら室町初期・中期の刀拵は実践に使われ、消耗品。殆ど残っていないので、後世の物や同時代の太刀拵、残された絵から想像するしかありません。

中世以前、金銀ニッケル等を含んだ原始的な銅は、太刀拵にも古くから使われています。是を山銅(やまがね)といいます。最古の打ち刀拵ではないかという覆輪(ふくりん)拵も存在します。南北朝末期至徳2(1385)年に春日大社に奉納された『菱作打刀拵』で、恐らく貴人の持ち物でしょう。



室町末期から桃山時代の現存品はままあり、時代劇で見るような拵の原型が残されています。
天正拵は柄の中央部が細く、柄頭が金具でなく角(つの)製で絹の柄糸を捲いて仕上げられ、柄糸の下にエイの革が柄木に捲かれ補強、エイの革は『鮫(サメ』と呼ばれ、漆塗りされます。
鮫は柄糸の絡みが良い反面、雨に濡れると柔らかくなる欠点があります。又、戦場で汗まみれになると同様で、漆の塗鮫は保護の役目もある実践向きと考えられます。

桃山期は自由な嗜好で多様な拵が製作され、柄頭が縁鉄(ふちがね)の処より小さくなる肥後拵の原型もこの頃に登場し、太閤や結城秀康・黒田如水の差料にルーツを見出せます。細川三斎は、これらの拵を後に熊本で洗練させたのが、肥後拵という事になっています。

江戸時代になると戦場で使う事もないので、漆を掛けない白鮫。登城差しの様式になっていきます。



鐔・刀装具

鐔の素材は武用の点からは鍛錬された鉄が一番。然るに太刀の時代から貴人用の貴金属製の外装も太刀金具師によって造られていました。 刀装具は『小道具』と呼ばれ、代表的な物は小柄・笄(こうがい)・目貫(めぬき)です。是等をまとめる表現で三所物(みどころもの)、小柄笄を二所物とも言います。
小柄はナイフの様な役割、笄はマゲのお手入れ道具。

太刀には付帯しない二所物ですが、何時から刀に添えられたのかはっきり判りません。室町初期乃至南北朝末期とされる腰刀拵は幾つか現存します。
下の拵は赤銅の総金具、筒がね目釘隠しに菊紋。山銅製と思える笄は手が異なり、枝菊が彫られオリジナルではないかもしれません。造りからしても雑兵が持てる物ではなく、貴人の持ち物だったと思われます。


その他の物を上げますと、柄の上部を頭(頭)、柄の刀側を縁鉄(ふちがね)といって、この二点を縁頭(ふちがしら)と云います。鞘の末端に付ける金属は鐺(こじり)といいます。

古金工鐔というのは、桃山以前の系統が不明な作に鑑定される名称の様です。その多くは山銅製で、くすんだ様な沈んだ色合いで雅味があります。太刀金具師の作品かもしれません。

この鐔は孔が1つで、室町期の姿。地を掘り下げ枝菊を表し、平面は粒だっている魚子(ななこ)仕上。部分的に金の粒を打ち込んで、変化を出しています。
銅よりは山銅は堅く、シッカリしています。それがはたして武用として適当かは疑問ですが、恐らく貴人の普段差しに使われた物ではないでしょうか。


切羽(せっぱ)とハバキ

鐔を挟んでいる金属製の薄板の切羽(せっぱ)は、『せっぱ詰まる』の語源。縁とハバキ間に鐔があり、切羽が両側から挟み込んでぐらつかない様に固定します。刀の場合はせっぱ詰まる(動かない)状態になっていないければなりません。 現代の居合刀では真鍮か銅の単板ですが、サムライの時代は是に金や銀を着せた切羽も使われていました。

太刀は大切羽・小切羽の二枚組、合わせて4枚の切羽で鐔を挟み込んでいます。出来合いの刀拵と鐔を合わせた様な物は、太刀の組切羽と違って不自然に3枚、4枚と切羽が入っている物もあります。

刀と鞘の間に介在する金属部品はハバキ。鎌倉期中期以前は、刀匠が付属として鉄で造りましたが、そこから錆が出て刀身が朽ち込んでしまうので、別の金属を使う様になりました。この期の国宝・重要文化財にも茎上部に痛みあるのは、鉄ハバキが原因と思われます。
やがて実用に適した銅に代わり、太刀金具師等が担当した様で、通常は銅のシングルです。ハバキは切羽を鐔側に押し付ける作用もしていますが、斬撃のショックを受け留める役割もあり、この素材に落ち着いた様です。

江戸期になると加州ハバキ等個性あるお国物も出て、白銀(しろがね)師という職人がハバキを製作しました。画像の時代ハバキは一見銀無垢に見えますが、銅に銀板を着せて装飾を施した肥後の着せハバキ。銅の銀着せは、手間がかかる為に現在では殆ど見られない物で、銀無垢の方が安く上がる様です。
財力のある持ち主は銅のシングルでなく、銀を着せて装飾を施させたり、家門入りにしたり。より豊かな持ち主は、金着せや、金着せ二重ハバキを注文したようです。又、銅に金鍍金(ときん、メッキの意)や、赤銅を使った二色二重も有りました。
刀身が研ぎ減りすると、ハバキはガタつくので作り替えられる為に、時代ハバキは刀剣市場で多くはない様です。近世市場では実用という面から離れて、見た目を重視。銅製よりは銀製、銀製よりは銅に金着せ、或いは二重ハバキにするという事になってきているようです。

中には金無垢ハバキもありますが、サムライの時代なら大名道具のみに限られていた物で、シングルの材料費だけでも数十万円ですから、位の高い刀に使われている事が多く、中作程度や新々刀では先ず見かけません。
ハバキと刀身にガタつきがある場合、研ぎ減った刀であるかもしれませんが、壊れて適当な物に交換されたと考えてもいいかもしれません。現代の居合刀ならコストと手入れの事を考えると、むしろ銀製が良いでしょう。

江戸時代の鐔・拵の話

関ケ原以降、全国的に武器生産を地元で行いたい為、諸藩は刀匠を招致する様になり、付随する刀装具もお国柄のある物が各地で作られました。
刀は中期以降注文が減りますが、逆に小道具の場合は都市で独立開業する金工も出て、花鳥風月等の奇抜な作品を作り出して個性を出しました。唯一肥前の鍋島家の藩工は、来(らい)風の地鉄に反りのある優美な姿が特徴で、磁器とともに諸国に収めていたので、肥前刀は最も栄えました。

鐔は鉄を主体とする鐔工と、色がね(金銀銅真鍮等)を主体とする金工鐔に大別されます。肥後や加賀では藩主召し抱えの工人達がいました。生活を保障され、仕事のみに打ち込めたので、個性ある良い作品が遺されました。両国とも象嵌鐔が知られますが、肥後は細川三斎のわびさびを現した鐔が主体。一方加賀は、百万石の財力を感じられる特殊階級向けの華やかな色がね鐔で対照的です。

金工鐔のユーザーは腰元を飾る意識が強く、財力のある豪商や高禄のサムライ。鉄鍔は武用を主眼とする筋になるかと思います。刀拵は京・大阪・江戸でも、出来合いの仕入物が流通していたようですが、腰刀拵は個人の趣向によって誂えるので、新作刀の何倍もコストを掛ける事も珍しくなかったそうです。しかし、懐寂しい一般の下級サムライには全く縁のない事だったと思います。

肥後金工鐔と刀装・小道具

細川忠興は戦国を生き抜いた武将、忠利に家督を譲り隠居して三斎と名乗り、八代に住みました。若い頃は執着心が強く短気で、家臣を切り捨てる残忍な面があったという事ですが、晩年は礼を重んじ性格は丸くなったというように、各派の個性を活かして、茶道のわびさびを刀装具に表わしたといわれます。
忠興の跡目を継いだ忠利は、太守でありながら柳生新陰流の目録を受けた武人で、晩年の宮本武蔵を食客として高禄で招いた人です。武蔵は正保2(1645)年5月に亡くなりますが、忠興も同年12月に亡くなります。

この国の主流派は60歳を過ぎる迄銘を切らないという慣習があり、藩主直属という事もあってか、無銘作が多くなっています。作品は大半が鐔、総金具の拵は楽寿作が細川家・分家に僅かある程度。春日派・志水・西垣は幕末迄続き、市場で人気のあるのは又七・楽寿・甚吾の上三代。


◎春日派(林・神吉)

肥後鐔の巨匠『林又七』は、鍛えの良い鉄に京風透かしや金象眼を施した作品が残されています。現存の作品は殆ど無銘。春日村に住んでいた為、春日派といいます。林家は三代の後継者問題が出てきた為、その技術を一門の神吉家に譲り、以降の春日派は神吉が中心になります。この一派は鉄鐔で、色がね作は無いといわれています。
神吉初代は全て無銘、二代深信・三代楽寿は僅かに在銘が有ります。 楽寿は又七の再来として小道具の世界では著名。拵にも精通していて、藩主自ら教えを受けたとの伝承もあり、製作期間は嘉永4(1851)〜明治4(1871)年迄。近代的独自デザインの物や、春日初代風の作も有ります。

楽寿は明治16年、68歳迄存命。元土佐藩士肥後鐔研究者の長屋重名は、彼の著書『肥後金工録』に本人から聞きいた話を詳細に残しています。肥後では、笄の代わりに馬針を添える事もあり、馬針の造形は当代一とされました。市場価格は楽寿極め鑑定書付鐔で50万円前後、金象眼があると2、3倍。重要刀装指定なら+100万円以上からといった所でしょうか。在銘なら大変な額面。
  


◎平田彦三・志水甚吾

初代平田彦三の在銘は1点、1635年迄の20年間が製作期間。二代は全て無銘、忠興没後に熊本に移転し二倍の製作期間がある為、平田とされる現存品は二代の物が多くなります。三代は金属加工の仕事はしなかったので、平田作は1675年迄とされています。色金を用いている物は覆輪が有り、不揃いな放射状の阿弥陀鑢や円形の翁鑢が施されて特徴的。槌目鉄地もあり、作風はわびさびの地味な作柄。猪目透かしはハート型の様な透かしで、鎌倉時代の太刀鐔にも見られます。

八代では一族の志水家が鐔製作をき継ぎます。甚五初代は全て無名、二代以降は他派より在銘品があるので、鑑定の拠り所になっています。鉄地の鋤下彫で、師筋にない現代作家の様な個性的なデザインに目を奪われます。雨龍や鯉・フクロウといった題材が良く知られています。




◎西垣勘四郎等

平田彦三の弟子で西垣勘四郎がいます。桐透かし鉄鐔が有名で、色がねの作品もあり『田毎の月』という名作が知られていますが、こちらは変わり出来。その他も主流派以外の上手もいました。幕末の光隣は一代限り、変化のある真鍮地の遺作が有ります。

又、主流派とは別に、坪井物とか本所物という春日派や甚吾のコピーを作っていた金工集団もあります。当時は国策で進められていた事業、偽物/贋作という認識はなかったと思います。愛好家間で肥後の本物は少ないというのは、主流派は僅かだという意味と解釈しますが、鑑定書に『肥後』となっていた場合は、これらの集団の手による肥後鐔という事で、値段も頃合いですから居合刀に付けるのは適当かもしれません。

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